「衣替え、しなくちゃいけないんだけど、やる気にならなくってさぁ」
朝食前、夫に向けて呟いた。わざわざ彼に向けて言ったのは、いつもの答えを求めてだ。
「やめときなさい、無理しないで、今日はのんびりしてなさい」
彼も息子も私に良妻賢母を求めていない。
もっと言えば頑張らなくていいから、平和にバカらしく、ダラダラと、呑気に過ごしてくれと思っている。
息子に至っては学生時代、学校から帰ってきたときに私がテレビを観ながらホットカーペットに寝転んでいると
「いいなあ。この光景を見ると平和な感じがする」
と喜んだ。
おそらく、中学入ったばかりのちょうど今頃、長期連休直前に、さっきまで台所に立っていた母親が突然横になり、「ちょっとおばあちゃんを呼んで」と言い出しかと思うと、あれよあれよという間に救急車がやってきて来て連れて行き、挙句の果てにはその晩病院に呼ばれ「今夜が山です」などと聞かされた恐怖体験のトラウマだろうと思っている。
夫は夫で、無関心というか、妻が甲斐がしく働こうがはたまた遊んでいようが、どうでもいい。
機嫌さえ良くしていてくれればいいのだ。
結婚したばかりの頃、掃除洗濯料理に振り回され凹んでいた時に言われたことがある。
「あのね、僕はトンさんに期待とか、ああして欲しいとか望んでないから。伸び伸びしてて欲しいの」
当時は、なんて失礼なと憤慨したが、あれは私という人間を私以上に見抜いていた発言だった。
人はああしなさい、こうしなさいと指図されず何をやっても文句を言われないと、なんとなく自然とある程度のところからは自分で自分を律するようにできているのかもしれない。
頑張らなくていい、ゴロゴロしてろと言われてもどこか頭の隅でやらなくてはならないことが引っかかる。
何をしていてもどこかでそれがあるから晴れ晴れと楽しめない。
「今日はやらない。今日は一日ドラマを観るんだ」
「そうしなさいそうしなさい」
一旦はそういうことに決めたが、皿を洗いながら考える。
また雨になるって言うしなあ。
休みでみんなが家にいる間はワサワサして衣替えなんてできないよなあ。
今日は息子は出社してるからタイミングがいいんだよなあ。あの人のいないときにあの部屋の箪笥、やっちゃった方がいいんだよなあ。
ああっ、くつろげないっ。
やるか。
長い長い葛藤の末、毛糸のセーターやらマフラーをしまい、半袖シャツを引っ張り出した。
やらなくていいと言われても、結局はいつかはやるしかないのだ。
やれた。清々しい。
季節の仕事を一つこなした「暮らす者としての一人前感」が嬉しい。
そういえば息子に「勉強しなさい」と言ったことがない。
親が勉強勉強と言わなかったのに東大に入りましたなんてこと、我が家では起きなかった。
中学受験を終えてほっとしたのか、見事に勉強しないまま、ずるずる成績は下がり続け、進学クラスから落っこちた。
教えてやれるほどの頭も体力もないので、困ったなと心配はしたが、まあどうにかなるだろうと、それでも黙っていた。
心配性な彼がそのままでいられるはずもなく、上がったり下がったりを繰り返し、高校3年はスレスレラインで元に戻った。
大学は自分の好きな事だけを学ぶところだったからか一番勉強していた。
アレもこの仕組みか。