ケジメの日

今日は息子の大学の卒業式。

コロナの真っ最中、参列を迷った末、「やっぱりこういうのはケジメとして行っといた方がいいような気がする」と申し込みをした。コロナ対策のため人数制限があるようで、先着何人までと、全員が参加できるわけではないらしい。

「zoomで中継するらしいけど、母さん、見ないでしょ」

「見ないよ」

目の前にいる本人を送り出すだけで私としては十分だ。タブレットの画面越しに眺めたら他人事のように感じられてしまう気がする。

そうは言っても、これからも彼はしばらくこの家で生活をするし、来月からは社会人としての生活が始まり、そのリズムに私自身がついていけるかなどと、どちらかというと気持ちが先に向いている。

今日は一つの通過点くらいに構えていたが、背広を着ていよいよ出ていく姿を見送った後、何か、とても大切なものを失ったような気がした。

それは感慨深いとか、切ないとか、そんな感情とはちょっと違って、取り返しのつかない瞬間をサラッとうっかり通り過ぎちゃった、みたいな妙な感情だった。

ケジメとして卒業式に参加した息子も、このうっかり節目を通り過ぎるのを防ぎたかったのかもしれない。

友達を作れず学食に馴染めず、いつも図書室にいた。

希望していた授業内容でなく毎日ため息をつきながら登校していた。

毎週土曜日早朝からアルバイトに行き続けた。

ついに我慢しきれず、転科試験を受けた。

尊敬できる教授に巡り合った。

アルバイトの仲間達と寄り道してくるようになった。

学校でちらほら声をかけられはじめた。

課題、就職活動、盲腸、内定、卒論。

そして、今日。

よく自分で道を切り開いてきた。

決してエリートだったり、トップだったりしないけど、やっぱり私は誇らしい。

 

今日という日は今日しかない。

私もうっかりしたくないから今夜はお赤飯を炊こう。

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