夫が外出していた土曜の晩、待たずに二人で食べようと鍋を温めていた。
ご飯だよと声をかけようとしたところに、ちょうど風呂から息子が出てきた。
「先に食べててって。食べよ」
電磁調理器を食卓に置き、それぞれの皿に肉を取り分け、今夜は豚しゃぶ。
全て整い、鍋を運ぼうと野菜を煮ていたガスコンロの火を消したそのとき
「うわっ!虫!虫!違う、ゴキブリ!ゴキブリだよっゴキブリだってばっ!」
完全非常事態に恐怖のあまり怒ったような声で、21歳の青年が叫んだ。
なんで今・・。
娘の頃はゴキブリが出たといえば私も彼のように怯えた。その姿が消滅したとなるまでは落ち着いてはいられなかった。退治などできるはずもなく家族の誰かを呼んでは「死んだ?死んだ?」と安心できるまでその部屋には近づかなかったものだ。
しかし結婚したその相手は天敵『黒の悪党』どころか、カナブンもクワガタも蜘蛛もトンボも芋虫も幼虫も、全てまったくダメな人だった。
新婚当時、夫が出社中現れた悪党が怖くてその部屋を締め切った。ただいまぁと呑気に帰ってきた夫にスプレーと新聞紙を渡し、その部屋に連れて行き
「絶対とこかにいるから!やっつけて!」
とすがった。するとなんということか、
「えっ、えっ、やだよ、僕、捕まえられないよ、ゴキブリ、やだよ」
と出てきてしまうではないか。
実家でなら、父が、たとえおっかなかろうと、痩せ我慢をし、立ち向かってくれた。
家庭において男とはそいういうものだと思い込んでいた私はびっくりした。
新妻は、非常にも部屋に夫をもう一度押し込め、捕獲するまで出てくるなと襖の前に陣取った。結局、捕まえたかどうかは定かではない。
話を戻す。
さあ食べましょうという時に現れたゴキブリ。
26年の月日は経ち、私はすっかり悪党に立ち向かえる肝っ玉の持ち主に成長していた。
「もう、なんで今。めんどくさいな」
変なところが父親似の息子はあてにならない。むんずと殺虫スプレーを手に「どこよ」と、その方向を構える。
壁にじっとしているその姿めがけ、シューッ。見事にかかった。ささっと逃げたが、一撃のダメージか、既に足取りが怪しい。
念のため、追い討ちシュー。これもしっかりかかった。勝負あり。
油断したその瞬間息子がまた叫ぶ
「あぁっ、消えたっ!消えちゃった、どこ行った?」
壁からぽろっと落下し、電話台の裏に姿を消した。
台をどかし、あたりを散々探したが見つからない。
まあ、あれだけ浴びれば、どこかで死ぬであろうと、ずらした家具を元の位置に戻し始めるとまだ叫ぶ男がいる。
「なんだよ、どうすんだよ、見つけないまま終わりにするのかよ、俺、食べられないよっ」
乙女か、お前は。
「あれだけやったらどこかで成仏するよ、大丈夫」
「どうすんだよっ、なんでこのまんまなんだよっ、食べられないだろっなんとかしろよっ」
なんとかしろよ…… 、だと?
プチン。深く息を吸う。低い声で呟く。
「ワタクシはゴキブリ係では、ありません。食べないなら、お先にいただきます」
鍋を運び、固まって微動だにしない息子を横目に一人、黙々と食べ始めた。
しばらくして落ち着きを取り戻したものの、意地になってそのままじっとテレビの前に突っ立って動かない息子に見下ろされながら、知らんふりをし、しゃぶしゃぶ。
一食抜くなら抜けば良い。
たっぷり食べて、食後のアイスをいただき、食器を洗い、コーヒー片手に二階に上がった。
一時間後、帰ってきた夫に母のひどい対応を訴えながらも、空腹に負けた息子は食卓についているようだった。
二人が鍋をつっつているところに降りていくと
「さっきはごめんよ。パニックになってしもうた。」
機嫌を取る青年。
「トンさんはね、トンさんダマシイというのがあってだね、そこに触れるともう、負けないから。怒っちゃったらもう、知りませんってなっちゃうから」
夫がなぜか嬉々として自分の奥さんの取り扱いを解説する。
「ふん」
ドカッとIKEAのチェアに踏ん反りかえる母。
「俺たち仲間だよな」
「仲間だよ。仲間ですとも。仲間に対してあれはなかろう」
パニクったんだと罰悪そうに謝る息子、その晩は「まだ危険地帯だから勘弁してくれ」と、現場に近い流しでの皿洗いを拒否した。
「ま、仲間だからね。許っ可すっる」
苦しゅうない。