たっぷり愛するベクトル

読んでいる本に「死んだ人に会いたいなあと切なくなるのは、それだけその人をしっかり愛した証拠だよ」という言葉が出てきた。

ああそいうことなのか。

なんの拍子もないときに、不意に「お父さんに会いたいなあ」と思うときがある。

父親っ子の私は、父がもう治らない病気だとわかったとき、父が死んでしまったらこの世の中はどうなってしまうのかと想像もつかないくらいに恐ろしかった。

20年経った今、ちゃんと世界は回っているし、私も恙無く生活し、時々声を出して笑っている。それでも、買い物の帰り道、天ぷらをあげているとき、ぼんやりしているとき、タイミングはその時々急に、「お父さんに会いたい」とこみ上げてくる。

父方の祖母、母方の祖母にも不意に会いたいと思う瞬間がある。

大好きばかりでなく、腹も立ったし、存在を鬱陶しくも思ったりしたのに、ただ、言葉を交わしたいと願う。

 

薄情なもので、実際に関わりがあった亡き人たちをさらに思い浮かべてみるが、その上のひいおばあちゃんや、父母の兄妹に対しこんな切なさはこないところを見ると、やはり「しっかり愛した濃度」がある程度満たした相手へのベクトルなのだろう。

本を閉じて、想像する。

母は。姉は。

もう二度と会えないとなったとき。

夫は。

よかった。3人とも想像しただけでやりきれない。

今出かけて行った夫がもう帰ってこないとしたら。

そんなことは絶対あってはならないと、ブルブル頭を振った。

近すぎる距離で生活していると、いないとホッとする自分を後ろめたく感じることがある。

よかった。ちゃんと私はたっぷり愛している。

母も姉も夫も。

狼狽るほどちゃんと愛しているようだ。

よかった。

 

ちなみに息子は想像しただけでも気が狂うので想像しなかった。

こんな雑な私でも、気が狂うほど、息子を愛しているようだ。