台所の水道の蛇口を丸々取り替えた。
取り付けの根本のところからジワジワと水が漏れてきていたのだ。
20年使い続けていたのでもう、修理は無理、新しいのを取り付けますよということなのだった。
上から押すと水が出る仕様が、関東大震災以降、物が上から落ちてきて水が出続けることのないようにと、逆になっていた。
上から押すと、止まる。下から押し上げると、出る。
単純に反対になっただけのことなのだが、これがなかなか頭に染み込まない。
毎日必ず、何度も、水がなかなか止まらない。
「あ、そうだ、逆なんだったけ」
毎度自分に思い出させ、そうだったそうだったと混乱している頭と体に新しい情報を送り込む。
今朝も水を出そうとして間違えた。
偶然息子が洗面所から
「なんかさあ、こっちはこれまで通り押せば出て、台所は出なくて訳わかんないよな」
と笑うのが聞こえた。
「だよねぇ、やっぱそう?そうなんだよ」
脳の柔らかい青年もそうなら、これは当たり前なんだな。
当たり前の現象なら、仕方ない、なんたって当たり前のことが起きているだけなんだから。
そのとき、浮かんだ。
母が私を「馬鹿で役に立つ存在ではない」と認識してそう言ってきても、それは彼女の考えを言っただけで、私の価値とは関係ない。
醜いから体型を出す格好はしないほうがいいと本気になってアドバイスをしてきても、意外と人はそんなに気にして私を見ていない。
長年、母親の言葉は絶対的な真実と、頭が吸収してきた。
母の言う言葉こそ、真実。ちょっと宗教っぽい。
私が馬鹿でノロマで、容姿が恥ずかしい存在だとして。
それが私自身の価値と魅力には正比例しないと言うことに、半世紀生きて、やっと気がついた。
20年の蛇口のシステムチェンジの刷り込みが2ヶ月経ってもまだ頭に定着しない。そして、おそらくもうしばらくかかりそう。
・・・ってことは、母の呪縛から解き放たれたつもりでいるのに、いまだ、大きな輪の中に出ていくことや、好きな服を買うことにビビる自分がいると言うのも、合点がいく。
20年で無理なもの、50年ならそうそう簡単にはいかないか。
当たり前のことだ。
今は移行中。
すぐに切り替わらない自分にどこか焦っていた。
かなり焦っていた。
なんでだっどうして動き出せないんだっあれほどわかったはずじゃないかっ。
意気地無しっ私!
お尻を叩いて責めて、ごめんよ。私。
わかっているのに、行動がついてこない。
わかっているのに、怖い。
認識移行期間の当たり前に起きる現象として、受け止めておけばいいのかもな。
そのうちゆっくり反応するでしょう。
仕方ないよねえ。ゆっくりいこう。
蛇口を上に上げて、水を止め、・・じゃない、下から上だった・・ほら、今もまた間違えた。
そんなことを考え、ちょっと安心する51歳。