神様に贔屓されてる気がする

今朝、4時26分、東京都目黒区にて練習中のウグイスの声が聞かれました。

沈丁花の花も咲き、梅も水栓も黄梅もほんのりといい匂いをさせています。

春はもうすぐそこまでやってきています。

 

朝、卵焼きが出来上がり、あとは味噌汁の味噌を入れるだけというところで夫が

「あのさ、僕の傘さ、青いやつ、あれ、どっかになくしちゃったんだよね」

「いつ?」

「いつだったかなあ、取りに行ったらなくてさ」

「この間の飲んできた日だな」

「いつだったかなぁ。それで、お父さんからもらったバーバリーのしかないんだけどさ、あれ、1つ骨から外れてちゃってるとこあってさ、トンさん悪いんだけどつけてくれない?』

「今ぁ?」

「うん、今。今日持ってくから」

くらっとする。私は裁縫の類は得意でない。得意でないから当然好きではない。傘の骨組みに生地を括り付けるだけの些細なことも、針仕事と思うと「うへえ」となる。

よりによってなぜこんな朝のドタバタしているときに。

そう思いかけてああそうかと気づく。

もう息子の登校がないのだし、食卓に配膳するのも全て自分でやらねばならぬと決まりもないんだ。

気忙しいと思うのは、全部自分の仕事と思い込んでいるからで、針仕事をしろと言うのなら、今、優先順位を変えて、全てを放り投げて取りかかればいいのだ。

味噌汁を完成させると火を切った。

「おかずはここにできてるから、あとはご自分でどうぞ」

「あ、ハイハイ」

「傘、やります」

「あ、ハイハイ、持ってきます」

夫が自分で味噌汁とご飯を盛り付け食べ始めたその横で、裁縫箱を広げた。

やり始めてみると案外単純な作業で簡単にすんだ。

「できました」

「おお。ありがと」

大したことじゃなかった。頭で段取り組みながら作業しているところにイレギュラーで何かを言われると一種「なぜ今なんだ」と混乱する。

けれど落ち着いて順序を変更したり、中断したり、何かを省略したりすれば大抵のことはそれほど大騒ぎするほどのことでもない。

一旦、集中すると、そこに入り込むところがあるからな。私は。

何事もフラットにフラットに。

先日よくブログを拝読させていただいているmamanさんがコメントに「起きている現象は全てフラット。どう意味づけをしていくかで違う」という内容のことを残してくださった。

本当にそうだ。

過去の記憶の辛いことも、私の色付け失敗エピソードに過ぎない。

人生のドラマなんて、どう解釈するかが肝だと最近つくづく思う。

そしてそう考えるようになってから、自分の恵まれさ加減に改めて感動する。

人、病気、鬱、環境、ブログの人たちの記事とコメント、目に見える触る、自分に関わることみんな。

全てが私の為に用意されているような、あるような、いるような、起きているような、計らわれているような。

その日の天候ですら、そう思えてくるのだ。

もしかしたら、私は宇宙の中で一番幸せな奴なのかもしれない。などと本気で考える。

実は私ってすごい恵まれてるのかも。

トンチンカンな夫にブウタレながら、ブウタレられる幸せも噛み締める。

「どうでもいいのですが」

「はい」

「自分でやってみようという発想はなかったのかい」

「ヒィーン」

「業務連絡、妻は裁縫が嫌いです」

「ヒィーンごめんよう」

ごめんようと、ここで言っちゃう人なんだよな。

やっぱ、恵まれとる、私は。

 

 ↓そのmamanさんの残してくれたコメントがこれです

mamannoshosai 子どもの頃祖母と落花生を食べる時にチラシ折りました😊起きている物事はいつもフラットでニュートラル…そしてたぶん人生はそこに良い意味づけをするか悪い意味づけをするかの連続ででき上がるものなんですね☺️

2020/02/24