夜中の捺印

昨夜、体調が思わしくなく早く寝た。

あれは何時だったのだろう。深い眠りについていたと思う。

「母さん、母さん」

遠くの方で呼ばれた気がして目を覚ます。夫だったなら不眠気味の私がせっかく寝付いたというのに起こすなんて一体何事だと、迷惑そうに目を擦るところだが、呼んでいるのは息子だ。寝ぼけながらもわかると即、スイッチが入った。

「なに?どした」

本を読みながらそのまま目を閉じて寝入っていたようで、上半身起こしたまま固まって身動きしない母がどうかしたかと思い始めていたようだった。

「大丈夫?」

事態がうまく飲み込めないまま大丈夫大丈夫と条件反射で答える。

「よかった、あのさ」

前のよかったは、生きてた生きてたのよかったで、後者のあのさはいきなり本題に入るあのさ。

「あのさ。今エントリーシート書いてたんだけどさ」

夜中に起こされいきなり聞くには、ずいぶんと深そうな話をもってきたなあ。

こういうところは夫と似ている。

私のように相談したいけど今寝てるから起こしてまでする話でもないかな、まあいいや自分で判断するかと、妙に気を回したりしない。

自分が誰かの意見が欲しくなったら、行く。たとえそれが教授であろうと意見を求めに行く。

そうして誰かと問答しながら自分の考えを出していく。

それが、今この夜中にきたか・・。

半分夢見心地を無理やり振り切り正気に戻る。

起こして悪かっと思わせぬよう、うつらうつらしていた程度だアピールするために、意識してはっきり大きな声で反応する。

「書いているうちになんかこの会社の質問の仕方とか、言ってることにイライラしてきちゃってさ、取り敢えず解答してても思ってないことを書いちゃって、求めてそうなことを無難に書いてるっていうかさ、この前の会社書いてたときは入りたくてなんとか自分の思いを届けたくて一生懸命書いてたんだけど。大きい企業だしここもいいかと思ったんだけど、書いててワクワクしないんだよね、そんで今もう一度この企業のホームページみて、社長の言葉とか企業理念とか読み直してみたんだけどちっともときめかなくて。明日の正午締め切りなんだけど・・・おれ、ここやめようかと思う」

そんな真面目な話、ここはいいかげんな相討ちじゃいかんなと一度、頭に入れ考える。

「いいんじゃないの。やめれば」

「父さんに相談すると、一応出しとけって言うと思ってさ」

つまり、そう言われたところでもう出す気はなくなっているのだ。

「いいんじゃない。思った通りにおやり。大丈夫。それでいいよ。承認いたす」

「だよな」

「承認するっていうのは、やめればいいって意味じゃなくて、例えばこの後また考えが変わって、明日の朝、やっぱり取り敢えずエントリーだけ書いたよって聞いても、それはそれでいいと思うってことだよ。聞いてて軽はずみに言ってるんじゃないってわかる。キミがよく考えて出した結論ならば、それを私は承認するってこと。大丈夫。自信持っておやり」

「そうか。じゃあやめる。じゃ、おやすみ。体調気を付けろ、ぐっすり寝ろ」

起こしておいてぐっすりもなにもないだろう。こういうとこも夫だなあ。しかし、遠慮せずに起こす息子にホッとする。

息子がドアを閉め去った後、ベッドの上でもう一度考える。

大丈夫だよな、ちゃんと考えて私、発言したよな。

寝ぼけた頭でいい加減に返事してないよな。

うん、この件はこれでいい。応援体制のまま見ていればいい。

 

ときどき不意打ちのようにやってくる「大丈夫だよな」も年齢が上がると軽く流せないものを持ってくるようになってきた。

彼が私に求めてくるのはいつも意見じゃない。

そうは言うけど書いて出しておきなさいよと言えばそうしたろうか。

いいんじゃないの、大丈夫だよという承認。

ハンコ、いただけますか。と念のためやってくる。

押す方も腹にグッと力を入れ、押すのだ。