映像がもたらすイメージ

昨日の夕方、NHKの所さんの番組で最近はなんでも動画が使われるというような内容のことを放送していた。

ダルダルとなんとなく聞いていた。

大学の授業も動画を取り入れてから生徒の食いつきがぐっとよくなったという。

「これからもどんどん動画をみせて、自撮りも取り入れて楽しんでもらおうと思います」

その教授は大学もサービス業なんだと笑っていた。

細かい説明書やパンフレットよりもパッと手っ取り早く情報が入ってくる画面のほうが頭に入るのだろう。

そういう私も料理本をたくさん買っても、結局はその日テレビでやっていた料理やTwitterから流れ着いた動画をみて「やってみよう」と真似することの方が多い。

パンを作るときなども、文字で粉やイーストの混ぜる順番、温度、捏ね方、ベンチタイム、一次発酵などと書かれるよりも誰かがやっている様子を流しで見たほうがイメージが湧く。

自分の頭にイメージが映像で見えると俄然やる気になるのだ。

大学生のときに付き合っていた男の子がいた。

就職して彼はアメリカに会社留学、私は自宅からの会社通勤となり、そこで夫と出会う。

大学時代から付き合っていた彼のことをものすごく好きで別れるつもりもなければ、幼かった当人同士なりに将来一緒になろうと話もしていた。

しかし現れた夫が「きみの相手は其奴じゃない」と言う。

何言ってんのこの人。

彼のことが大好きで雪の中で連絡がつかないと、凍えながら二時間も待った。

足元びしょびしょになりながら、彼が現れたとき無表情だと怒っていると思うかもしれないと必死に笑顔を作って待った。

それほど、馬鹿なほど好きな彼だった。

けれどいよいよお年頃になったとき、どうやってもその人と一緒に朝食をとっているテーブルを、その光景をイメージできない。

なんの不満もないのに。大好きなのに。

これはどういうわけだ。

試しに、同じ部署のデリカシーのない同期の奴をやってみると、うっすら浮かぶ。

ぶるぶるぶるぶる。

だめだ、想像しちゃいかん。そんなはずはない。

どういうことだどういうことだ。

「そいつじゃないもん」

夫の言葉がだんだん膨らんで、結局はイメージできない不安を拭えず彼とは別れた。

泣きながら彼との手紙を焼き、その後何年も引きずったが、あれは今でも正しかったと思う。

痛くてたまらないけど必要な外科手術をする、そう決心した、そんな感じ。

一方、あっさりイメージできた人と暮して25年経つ。

帰ってくるとステテコになり、御飯時でも平気でお尻を持ち上げてブッとする。

センスのいい会話なんてできないし、ドラマや映画の好みも合わない。

なんでこの人だって思ったのか。我ながら24歳の自分に尋ねたい。

わからない。でも、そう浮かんじゃうんだもん。

 

テレビ画面から若い女の子がハキハキと答えているのが聞こえた。

「むずかしいマニュアルとか読むのめんどくさいですもん、動画でサーッと見る方がいいですね」

聞き覚えのある声。ぼんやり眺めていた女の子の顔をよく見るとなんと、いつも行くスーパーのレジの子だった。近頃では店員さんへの指導も紙ではなく動画を見てもらうようにした例として、インタビューに答えていた。

気立てが良くておおらかで感じがいい人だったが、そいういえば最近見ない。そうか、隣の区の店舗に移動したんだな。

公共の電波から突然、知っている顔が出てきたことに一人興奮する。

誰かにいいたい。

誰かに伝えたい。

ほらっほらっ、この人、私知ってる、いつも行くスーパーにいた人!話したことある!

ああでもそうか。動画に馴染む息子世代はテレビに映っているくらいなんとも思わないのだろう。

ビデオカメラで記録を残すことに慣れて、自分自身が画面に映っていることすら、なんともないのかもしれない。

 

寝っ転がっていたのをガバッと起き上がり、やや興奮し、やがてぼんやり考えた。