私の社会の扉

今日のドトールは長閑。

午後3時。午前中から立ちっぱなしで野菜の煮浸しやスープを作り、息子もでかけ、いそいそやってきた。

いつもこの時間帯は学生や仕事をする人達で混み合っているのに、まばらに席が埋まっている程度だ。

右っ側に柱があるお気に入りの席にも誰も座っていない。

慌てて確保しなくても大丈夫。

 

どうしよっかな、このまま家の中で過ごそうかな。

なにもドトールにいかなくたって自分の時間を楽しむことはできるっちゃあできる。

あそこに行かないとダメっていうふうになりたくない。

家の中にああいうスポットを作ればいいんだかなあ。

 

席に着くとホッとする。

そのホッとする感じに「ああこれだ」と思う。

すべてから分断された空間だからか。

机と壁との絶妙な位置だろうか。

どうしてここにくるとこんなに落ち着くのだろう。

自分に集中できるのだろう。

何度か家の中にドトール空間をと寝室のレイアウトをああでもないこうでもないと、動かして似せてみたことがある。

デスクを壁に寄せ、本棚で囲って鏡台で背後を区切り小さな城を築いた。

それはそれでいいのだが。

夕飯前、すべての支度が整い、ちょっと本でも読もうかというとき。ここに数分いると、小さくリセットされる。

流れを一回断ち切る。

でも、ここのこの感じは作れない。

 

店内独特の、店員さんの注文を復唱するキビキビとした声、おばさん達の会話、食器の音、学生のプリントを揃える音。

社会人がパソコンを打ちながらときどきする、深いため息。

目の前ではなにかの脚本に赤線を入れている。

被さる知らない曲の、ゆるいBGM

家にはない音。

ここは私が社会の一部とつながる場所。

お母さんも娘も妻も脇に置いた、ただの人。

そんな安堵感なのかもしれない。

家という囲いの中にいると目に入るもの、聞く声、すべて家の色をしている。

それが私にとっていちばんの場所なんだけど

ときどきこうやってここにきて息継ぎをする。

 

少し前、それを納戸でやっていた。

3畳ほどの小さな部屋に机を持ち込み、箪笥を息子の部屋に出してそこを自分の基地にした。

最低限の家事を済ませるとそそくさとそこに籠り、ほぼ一日中そこで過ごした。

ドアを閉め切って中に居ると誰もそこまでは立ちいって来なかった。

あれも今にして思えば家族と自分を分断させていたのだろう。

やろうと思えばもう一度、納戸基地は作れる。

きっと誰も文句はいわない。

けれど。

もうそれはできない。

文句を言わないだろうが、うっすらとした不安を感じ、私を見守る息子と夫の姿が浮かぶ。

あのときは、そんなことすら心が及ばなかった。

陽気にケロケロ家事をして、ゴロゴロテレビをみて、馬鹿な冗談を交わし、その合間にここへやってくる。

そうやって知らないうちに抱えているしんどい気持ちに栄養与えてまた戻る。

できるだけ内面に向かっている自分は見せたくないな、もう。

 

それでもやっぱり家族はいい。

そう思えるようになっている自分に気がつけるのも、やっぱり今日、ここに来たから。