華やぐ朝

「トンさんが降りてきたとたん、点が入った。ありがとう」

早起きしてテレビの前に立ちんぼだった夫が洗面所に顔を出す。

いつも通りラジオ体操に向けて起きてきただけなのだが、言われて悪い気はしない。黙って受け入れた。

うちのカミさんは運が強いと思っているのはどこかで彼のお守りになるかもしれない。

本当に頑張っているのは選手のみんなだ。手柄だけ横取りしてしまった。

息子はぐうぐう寝ている。

昨夜、遅くまで仕事をして降りてきた。

同じ部の先輩一人は試合に向けて早帰りし、もう一人は休暇をとったそうで、その仕事のフォローを引き受けて忙しくなっているという。

「面白いね。サッカーで休む人がいても通常モードで働く男は鳥のフンでは遅刻を選ぶ」

「あれは俺の一大事だ」

人事部長はカタールまで休暇をとって行ってきたらしい。

「どの試合観たのかな。ドイツ戦ならいいけどコスタリカだったらかわいそう」

まだ息子が幼稚園にあがったばかりの頃、夫が会社を休んで韓国やスペインにサッカー観戦で行ってしまうのを「なんて人だ」と驚き呆れたが、私のちっぽけな価値観で反応していたのだと、今頃になって理解する。

夫のような人も息子のような人も、たくさんいるんだな。

ま、変わり者には違いないが、人のことは言えない。

うちはみんな癖が強い。それぞれのベクトルがあっちこっち向いていて、要所要所でガチッと一致する。

日本が勝った。

もうしばらく、三人共通の祭りが続く。

それがちょっと嬉しい。

 

心配無用

 

行ってきますと出社した息子がすぐ戻ってきた。

窓からこっちを覗いている。忘れ物でもしたのか。会社に間に合うのだろうか。

「鳥のフンが落ちてきた」

頭にピチョッと直撃したらしい。頭皮に直に伝わる感覚が彼を引き返させた。

何だそんなこと。内心思う。私だったらとにかく遅刻しないよう、ハンカチで頭を拭き、会社についてから水道水で湿らせた布でゴシゴシやってその日はしのぐ。

とにかく出社、それが昭和生まれの発想だ。

しかし息子は戻ってきた。これから洗面所でもう一度頭を洗うという。

コートの襟にもついた。鞄は大丈夫か、髪についたのが取れない。ハンカチで拭いたけどほら、すごいだろ。こんなシミになって。

ポテトチップを箸で食べるのにも若干の抵抗を感じるが、この人は自分が汚れることに過剰に反応する。

私の間違いは人から自分がどう評価されるかを気にしてやってきたことだ。

彼はそこも気にはするが、まず、自分。自分の感覚をまず通す。

流行を意識しつつ、最後は自分。振り回されつつ、最後は自分。迷い動揺し傷つくが、最後は必ず自分を曲げない。

鋼の精神力。大学の友達にそう言われたことがあるそうだ。

「そんなの大丈夫だよ。頭ちょっと濡らしておけば」

「なんか自分が臭い」

「そんな、鳥のフンが気になるほどの臭いするわけないって。鳥のフンがついて大騒ぎするのは車のボンネットに落ちた時くらいだよ」

何とか大したことない方向に持って行かせようとするが、おさまらない。

臭いってこれ?ちょうど、包丁を研いでいた。その独特な匂いをすっかり自分についた悪臭だと思い込む。

包丁の匂いを嗅がせ、ああこれかと納得させてもやはり、自分が汚れているのが許せない。

とうとうこれからシャワーを浴びると言い出した。

鳥のフンで。遅刻。入社2年目の若造が。ありえない。

課長に連絡を入れるのに言葉を考える。

「ちょっと遅れますはよくないな、事故かと心配させる。」

結局、ちょっとアクシデントがあり遅れますとだけ送信し、出社してから対面で事実を話すとした。

「課長に鳥のフンって言うの」

あえておかしそうに笑って見せたがもう完全に理解できない。こいつ神経質な我が儘な男だと思われてしまう。

しかし。私が理解できようと、違和感を感じようとそれが彼なのだ。

幼稚園、小学生の頃まで男の子というものに対してのイメージとかけ離れた彼の繊細さが気になって仕方なかった。

何とかしないとと、問題意識を持っていた。

ピチョッと落っこちてきた鳥のフンでパニックになって引き返し、シャワーを浴びて服を全取っ替えして出直すなんて漫画の一コマのようでおかしい。息子と思わず、眺めるといい味出してる。

会社でどう評価されるかなど、彼自身の選択だ。

一人暮らしをしていたら、きっとやりたいようにやるだろう。

そもそもあの時私が死んでいたら、あれこれ口出しすらできない。

どこかに彼のこの風変わりなところに面白みを感じる人がいると信じよう。

「ふふ。いいのかも。それこそが君だもんね。まあその極端な感性があるからこそエンターテイメント系の会社にいるのかも」

息子は午後出社に切り替え、ゆったりと身を清め、また出ていった。

偏屈な男と思われるかもなあ。それも彼の人生だと見送った。

 

課長のところに行き事情を話すと大爆笑だったらしい。

「鳥のフンがですね、頭を直撃して、もう、終わったと思いって言ったら、ゲラゲラ笑ってよかったよかったって」

母親は深く深く安堵し、感謝するのであった。

 

 

 

湿度と私とiPad

 

自分の世界をしっかり持って迷いなく生きている人に憧れる。

小さく固めた中でひっそりと暮らす。

そう思う時と、まだまだ自分には開拓の余地がある、時間もたっぷりある、これからもっと広がって行くような気持ちになってワクワクする時とが交互にやってくる。

気分屋なのではなく、多分その時の身体のコンディションと連動しているのだろう。

体調に不安を感じながらの何日かが続くと、もう生きているだけで精一杯、この家の中でも楽しく暮らせるからそれでいいと心底思う。

もっと追い詰められると、もう必死。とにかく1日が必死。

昨日はそんな日だった。

首が動かない。頭はよく回らない。足に力が入らない。でも、感じているのだ。いろんなことを。

庭の柿の葉っぱ、どんよりした空。

今夜はミネストローネを作ろう。あとはお肉を焼こう。

サツマイモが残っていたな。サツマイモご飯、してみようか。

本も読めないので、ぼんやりYouTubeでピアニスト達の演奏を聴く。

雨の降る前に柿の落ち葉を集めなくちゃ。

動いてみては、あ、ダメだと休み、また動く。ゼンマイの切れかかったおもちゃのロボットみたいだ。

夕方、風呂掃除をしながらそのままシャワーを浴びた。

湯船にお湯が溜まっていくなかで髪を洗い、持ち込んだiPadで落語を聴いた。

こんな時間の使い方もいいなあ。

結局一日、家から出なかった。

浮かんでは消えていく、あれやらなくちゃこれやらなくちゃも全てやり過ごし、ひたすらじっと、じっと。

iPadの音か突然、聞こえなくなった。

Bluetoothを切ってもヘッドフォンの表示が切り替わらない。ヘッドフォンなんか使っていないのに。

さっきお風呂でイヤフォンを使いながら窓際に置いたので、湿気でおかしくなったのか。

何度再起動しても症状は変わらない。

もう、いいや。仕方ない。これも長いこと使っている中古品だもんな。ガタも出る頃か。

 

今朝。

そっと起き上がる。絶好調ではないけれど、昨日よりずっといい。

雨も止んだ。いけるぞ、ラジオ体操。

リビングに降りて、そうだ、とiPadをつけてみた。

音が出る。

おお。お前も湿度にやられたな。

お互い、騙し騙しうまいことやっていけばまだまだ大丈夫。

 


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