行ってきますと出社した息子がすぐ戻ってきた。
窓からこっちを覗いている。忘れ物でもしたのか。会社に間に合うのだろうか。
「鳥のフンが落ちてきた」
頭にピチョッと直撃したらしい。頭皮に直に伝わる感覚が彼を引き返させた。
何だそんなこと。内心思う。私だったらとにかく遅刻しないよう、ハンカチで頭を拭き、会社についてから水道水で湿らせた布でゴシゴシやってその日はしのぐ。
とにかく出社、それが昭和生まれの発想だ。
しかし息子は戻ってきた。これから洗面所でもう一度頭を洗うという。
コートの襟にもついた。鞄は大丈夫か、髪についたのが取れない。ハンカチで拭いたけどほら、すごいだろ。こんなシミになって。
ポテトチップを箸で食べるのにも若干の抵抗を感じるが、この人は自分が汚れることに過剰に反応する。
私の間違いは人から自分がどう評価されるかを気にしてやってきたことだ。
彼はそこも気にはするが、まず、自分。自分の感覚をまず通す。
流行を意識しつつ、最後は自分。振り回されつつ、最後は自分。迷い動揺し傷つくが、最後は必ず自分を曲げない。
鋼の精神力。大学の友達にそう言われたことがあるそうだ。
「そんなの大丈夫だよ。頭ちょっと濡らしておけば」
「なんか自分が臭い」
「そんな、鳥のフンが気になるほどの臭いするわけないって。鳥のフンがついて大騒ぎするのは車のボンネットに落ちた時くらいだよ」
何とか大したことない方向に持って行かせようとするが、おさまらない。
臭いってこれ?ちょうど、包丁を研いでいた。その独特な匂いをすっかり自分についた悪臭だと思い込む。
包丁の匂いを嗅がせ、ああこれかと納得させてもやはり、自分が汚れているのが許せない。
とうとうこれからシャワーを浴びると言い出した。
鳥のフンで。遅刻。入社2年目の若造が。ありえない。
課長に連絡を入れるのに言葉を考える。
「ちょっと遅れますはよくないな、事故かと心配させる。」
結局、ちょっとアクシデントがあり遅れますとだけ送信し、出社してから対面で事実を話すとした。
「課長に鳥のフンって言うの」
あえておかしそうに笑って見せたがもう完全に理解できない。こいつ神経質な我が儘な男だと思われてしまう。
しかし。私が理解できようと、違和感を感じようとそれが彼なのだ。
幼稚園、小学生の頃まで男の子というものに対してのイメージとかけ離れた彼の繊細さが気になって仕方なかった。
何とかしないとと、問題意識を持っていた。
ピチョッと落っこちてきた鳥のフンでパニックになって引き返し、シャワーを浴びて服を全取っ替えして出直すなんて漫画の一コマのようでおかしい。息子と思わず、眺めるといい味出してる。
会社でどう評価されるかなど、彼自身の選択だ。
一人暮らしをしていたら、きっとやりたいようにやるだろう。
そもそもあの時私が死んでいたら、あれこれ口出しすらできない。
どこかに彼のこの風変わりなところに面白みを感じる人がいると信じよう。
「ふふ。いいのかも。それこそが君だもんね。まあその極端な感性があるからこそエンターテイメント系の会社にいるのかも」
息子は午後出社に切り替え、ゆったりと身を清め、また出ていった。
偏屈な男と思われるかもなあ。それも彼の人生だと見送った。
課長のところに行き事情を話すと大爆笑だったらしい。
「鳥のフンがですね、頭を直撃して、もう、終わったと思いって言ったら、ゲラゲラ笑ってよかったよかったって」
母親は深く深く安堵し、感謝するのであった。