鶯が鳴いていた。
今朝、公園を歩いていたらへたっぴな可愛らしいホー・・・ケキョッと練習中の声がした。そのすぐ後からホー・・ホケキョッ。
こうやるんだと言わんばかりの。親だろうか。
ふふふ。
公園の出口での数秒のことだった。
朝、家を出る時、外が明るくなってきた。寒さもだいぶ和らいで、少し、緩む。
体も心も緩んでいるのがわかる。
少し前まで、私は自分を好きになるために人に尽くしていたように思う。
気がついたのに自分がしんどいからという理由でそれをやらないのは、なんだかすごく悪いことをしているようで落ち着かない。
そんな自分を嫌いになりたくないから、よしっと力を振り絞って、頑張る。
いつもそんな感じだった。
けれど、大切な人が増えれば増えるほど、ああしてあげれば喜ぶか、こうしてあげたら助かるかと思いつくことが増える。
しまいにいつも誰かのことを考えてばかりいた。
102歳で亡くなった母方の祖母のところに行くといつもほっとした。
ただ、笑って、あらぁと嬉しそうに出迎えてくれるだけなのに、なぜか顔を見たくなる。
盛り上がって話し込むでもなく。ただ、そこに行くだけだった。
それなのに帰る時には私は元気になっているのだった。
祖母はいつも自分中心だった。自分に素直だった。
私がデパートで買って持って行った和菓子も気に入らなければ、残す。
「いらない、好きじゃなかった。持っておかえり」
衒いもなく、そう言う。
気にいると施設の人に内緒で引き出しに入れておくんだと、私の分ももらう。
一度、施設にいると意地悪してくる人とかいないのと尋ねたことがある。
個性の強い人なので、嫌な人は嫌だと思う。事実、現役の頃は義姉や義理の妹たちは陰で悪口を言っていた。
人懐っこく、誰とでもすぐ仲良くなる。その反面、それを面白く思わない人もいる。ここの暮らしでは大丈夫かと気になったのだった。
「いるわよ、意地悪な人」
ケロッと言う。びっくりしてどうしているのかと聞いたらこう言った。
「そういう人には近寄らない。あっちもこっちもそれがいいんだ、平和、平和」
なるほど。
当時はさすがだと感心しただけだった。祖母らしい。でも私はそこまで振り切れないなあと憧れた。
祖母はお節介だった。
家族でも知人でも困っている人のところに寄っていく。あんまり関わるので疎ましくされることもある。
するとあら、怒られちゃったとぺろっと舌を出して引っ込む。
傷ついてもいない。怒ってもいない。
あれは大正解の生き方だったなあと今更ながら思う。
それを最近、心の中心に置いている。
ジャッジ、ゼロ。自意識、ゼロ。やりたきゃやる。面倒ならやらない。
矛盾があろうが、不完全だろうが、理解されなかろうが、揶揄われようが、どうでもいい。
なんてシンプル。なんて簡単。そしてなんという解放感。
自分を愛することが下手だった。
上手くできない自分をいつも恥じて取り繕っていた。
ホー・・ケキョッという拙い鳴き声。愛らしいじゃないか。
拙い私も、ケキョケキョ楽しく生きていくのだ。