母の心

息子の引っ越し騒動のドタバタと並行して、姉が、熱を出した。

「具合が悪いって早く帰ってきて寝て何も食べないで寝ちゃったのよ」

母が夜、やってきた。聞くと38度あると言う。医者に寄り薬をもらってきたが、食欲はなく、薬だけ飲んだら寝たそうだ。

「あの人が食べないのはよっぽどよ。コロナよ!」

明らかに母は動揺している。しかし本人にその自覚はない。

「高熱が出てすぐ下がることもあるから。まだコロナってわからないよ。今、ノロウィルスも流行ってるし、インフルエンザってこともあるし、疲れかもしれないよ」

年末から激務が続いていた。疲労からくる発熱じゃなかろうか。

「コロナよっ、すごくだるいって言うし、吐き気もするっていうんだもん!」

ただの疲れからくる体調不良と言われて声を荒げて怒る。

「まあ、薬飲んだんなら、明日まで待ってみよう。寝てるんでしょ。コロナだったらしんどくて眠れないよ。大丈夫。寝てるなら今はそのまま休ませておやり」

起こして何か食べさせようとするので、それはやめたほうがいいと言った。

そして、翌朝。

ラジオ体操に参加できず代わりにドトールに寄り道して帰った朝。

実家の様子を見にいくと母は明るい光の差し込むリビングのテーブルの前で新聞を読んでいた。目の間には大画面のテレビがついている。

「どした、お姉さん」

耳が遠いので二度、大きな声をかけると、振り向いた。

「熱、下がったのよ」

「何度」

「平熱」

ああ、息子の引っ越しの最中、ややこしくならなくてよかったと安堵する。

「よかったよかった。薬が効いたなら。もうあとは休んでいれば治るよ。」

しかし母は今日も医者に行かせると言う。薬もまだ残っているのに行って診てもらった方がいいといって訊かない。

「もう少ししたら起こそうと思って」

およし。寝かせておあげ。

だって。

大丈夫だから。

「だって体操教室の人が、この前すぐ熱が下がったけど結局コロナだったって!」

「それでも。薬で対処できてるなら家で休んでいたほうがいいよ。免疫落ちてるんだらか余計な菌をもらうかもしれないし、熱の出た頭でぼんやり歩いて事故にでもあっったら大変でしょ。第一、しんどくて出歩きたくないだろうし。今は体が治る方向に向かっているんだから起きてくるまで放っておいておあげ。」

でも。

でもじゃない。休ませておあげ。

実家から我が家に戻り、朝食の支度とスコーンを焼いた。

その日は息子の引越し荷物集荷と二人のテレワークと、泡ただたしい一日だった。一息ついた夕方、やれやれと寝転んでいると母がきた。

「今、叩き起こして病院行かせて返ってきた。コロナでもインフルエンザでもないって」

・・・だろうよ。

・・・気の毒に。我慢できず病人を叩き起こしたのか。

「なんだったの」

「疲れでしょ。コロナでもインフルでもないんだって。明日から会社も行っていいって言われて本人、行くって言ってるけど、冗談じゃないわ、明日は休ませるわ。丸一日、牛乳しか飲んでないのに仕事なんか行かせられますか!こっちがどれだけ心配したと思ってるのよっ」

心なしか、顔に笑みが浮かび、張り切っている。

ほっとしたのだ。姉が大丈夫なこと。待てば回復すること。大きな問題に発展しないことに。

「よかったね」

「あなたも、気をつけなさいよ」

昨日までの不安げな表情は消え、母親の顔で私を見下ろす。

へえへえ。

うろたえていた老女の姿はそこにはなく、女帝、母君臨。

 

追伸

さっき姉が「どうよ」とやってきた。

息子が家をでて、「どうよ」という意味。

「つつがなく暮らしておりまする」

「そりゃそうでしょ」

お姉さんこそ、調子はどうよ。

ああ、もうだいぶいい。出社したいのにさせてくれなくて参った。

そこから母の暴走の話になる。

「ぐっと堪えて見守るって、できない性分だから。不安なんだよ」

「吐き気もだるさもあるって聞けば、コロナって思っちゃうよ」

「ちょっとまて。私、一言もだるいとも吐き気があるとも言っとらんぞ」

二人、顔を見合わせニヤリ。

「頭の中でコロナだって思い込んだから、寄せて話したんだね」

かわいいっちゃ、かわいい。

めんどくさいっちゃ、めんどくさい。

でもやっぱり、可愛い人だ。