判子

息子が面談時、上司に褒められたそうだ。

それを夜中、起こされ、聞く。

本人も相当嬉しかったのだろう。興奮して何度も同じフレーズを繰り返す。

はじめは一緒になって喜び感動していたのに話が一巡すると「わかったから」と切り上げたい。もういい。内容はよくわかった。私も心から嬉しい。が、もう寝たい。この喜びを噛み締めつつ、眠りにつきたい。

それを堪え、うんうん、と相槌を打つ。

ほんの数分なのだ。ほんの数分、この夜この瞬間をいつかきっと愛おしく思い出す。

心に浮かんでくる言葉をそのまま伝えた。

よかったねぇ。ありがたいね。もちろん君の努力と才能とが認められたんだけど、そこに気がついてくださる方とのご縁に巡り会えたこと、ありがたいねぇ。でもやっぱり私は君を誇らしく思うよ。

「うん、見ててくれたってことが、ありがたいよな」

今朝。目が覚めて思う。あれは夢じゃなかったんだ。

この喜びはなんだろう。

自分の手柄でもないのに嬉しいのは。

息子の喜びが自分の喜び、というのとは違うように思う。彼が誰かに傷つけられた時、私は怒り狂って学校に殴り込みに行った。

バカ親だろうとなんだろうとどう見られてもかまわん、許さんぞという衝動が突き上げてきた。あれは本能だったのかもしれない。

けど、これは。彼の努力が報われたことへの感謝と安堵感。

息子に接してきた自分自身の方向は間違っていなかったと神様に言ってもらえたような、判子をもらえたような。

三者に「いいよ」と言ってもらえたことをやっぱり、そう捉えている。

勘違いしちゃいけない。違う。それは違うんだ。

ご縁と運とタイミングといろんな奇跡が重なったことで息子がいただいたご褒美なのだ。

息子を見つけてくださった誰かがこの世にいたということ、感謝しかない。