お好きにどうぞ

母から「よくやっている」と肯定されたのはやはり、どう思い返しても昨日が初めてだったんじゃないだろうか。

高校の頃だった。手伝いをしたり、留守中に食事を作っておいたりしたとき、彼女は

「ふん、やっと役に立つようになったか」

と笑った。それでも嬉しかった。

「お姉さんはいざというときに役に立つからいいの」と姉に家事をさせようとしなかったから、台所は私の点数稼ぎのいい場所だったのかもしれない。

いざという時に役に立たないんだから、日常いざでもなんでもない時に役に立とう。

そんなことをずっと考えていた。

大人になっても、それは続いた。

二世帯同居でどうしても目が届く。

結婚すれば妻として要領が悪いと、子供を産めばしつけが下手だと言われた。

認めてもらいたくて頑張っているうちに、いつしかそれが自分の限界との闘いになっていたが、これでもか、これでもかと躍起になっていたように思う。

丈夫でもないのに無理をしすぎてついに倒れても、そのことのおかしさに気がつかなかった。「やっぱりなにをやってもダメな子」というレッテルを揉み消そうと更に動き回る。

当然、苦しい。

そのうち、こんなに苦しいのはいつも私を役に立たない子、お姉さんのために産んだ、お姉さんに比べてあなたはどうしてと、言い続けられたからだと、逆恨みが始まる。

勝手にやってたくせに。

それまでただひたすらこっちを見て、私を見て、認めてと手を伸ばし、叫んでいたのが、急にどうでも良くなり、心を閉じた。

意識的に実家と距離をおき、関わり合いを避けた。

こうして書くと、あまりの一人上手な空回りに可笑しくなってくるが、あの頃が一番辛かった。

母に対する憎しみでパッツンパッツンに膨らんでいた。

そこからどうやって今のように変化したんだろう。

思い出せない。

私の中でもっと大切なことが増えていって、その辺のことに意識がいかなくなったのか。

いつの頃からか、私が生きていることと、母の投げかける言葉につながりは全くないんだと、わかってきたような気がする。

ずっと母の反応を見て選んだり、諦めたりしてきたから自分がなにが好きでなにをしていると落ち着くのか、それすらわからなくなっている。

今はそれを一つづつ、拾い上げては、これかな、あれかな、と手探りで遊んでいる。

読書が好きだと思っていたけど、それは母が「お姉さんは本をよく読むのにあなたは読まないわね」と言っていたからだと気がついた。軽いエッセイなら好きだけど、どちらかというとドラマが好き。

料理は実験みたいで面白い。家族の好きそうな味付けを見つけると得意な気持ちになる。

ラジオが好き。人のおしゃべりが好き。

騒がしいお笑いは嫌い。人の良さそうなのんびりした漫才が好き。

ゴロゴロ寝っ転がるのが好き。

ブランドに興味はない。・・・今のところ。

どっちかというと、オタク系。

ラブロマンスは苦手。

母に言われてもやっぱり夫を立てて大人しくはできない。親友、戦友、一番の腹が立つ相手で一番の味方。

母の意識から離れ、ようやく自分に軸を置いて歩き始めたのはこの数年のこと。

自由なんだなあと、最近よく思う。

サボろうが、怒ろうが、くだらない本やドラマを見て笑おうが、なにを聴いてなにを着ても、お好きにどうぞ、なんだ。

やりたいから、やる。やりたくなきゃやらない。気が乗らないって言うのも理由にしていい。それでいいんだ。

肩の力が抜けたから「褒めてくれ光線」も消えたのかもしれない。

だから、抵抗なく、母は口にする気になったんじゃないだろうか。

「よくやってるわよ」

嬉しかった。

そう見えるんだ。

でも、手放そう。

また「よくやってるっていう評価を失わないようにしなくっちゃ」と変な頑張りをしないように、手放そう。

今日も好きなように過ごす。

明日も。

これからずうっと。