自分であるということ

最近少しづつわかってきた。

不安の種に真正面から向き合わなくても、生きていけるということ。

心に抱えているものがあるとき、私はその問題を深堀し、それがいつか悪さをすることを恐れ、どうにかそれから逃れられないかと稚拙な小手先の手を打ち続けてきた。

問題は本当は自分だけの努力じゃどうにもならないものであるというのに、そこがもとで湧き起こる自称一つ一つを、モグラ叩きをしているかのようにその場しのぎの対処をし、必死に逃げてきた。

何をそんなに怖がっているのかと考えると、結局はプライドとか、そんなかっこいいものではなく、単に自分が傷つくこと、それだけなのだ。

傷つくことを恐れるな。

そういうけれど、一度深い傷を追うと、もう二度とあんな辛い思いをしたくないと、どうしても思う。

心にダメージを追うことが怖いのだ。

そのためにジタバタジタバタと私がやってることはどれもこれも不自然なことだ。

自分自身であることは、丸腰の無防備な状態になるのと似てる。

でも。もうお手上げだ。

疲れ果ててしまった。

私にはコントロールできないことなのだと諦めるしかない。

腹を括って、不安は不安でどうしようもないものと持ち続けることにしよう。

私は私自身に戻ろう。

そんな私を馬鹿にして、また笑う人も出てくるだろう。

それでも、グッと地に足をつけて、自分を貫くとしよう。

まだまだ

まだまだまだまだ、怖くて怖くてたまらない。

でも誰も助けることはできない。心のあり方を変えるしかないのだ。

不完全燃焼のまま無難に無難に生きていくより、血だらけになってでも、魂を取り戻し、死ぬまで私自身でありたい。