大型連休

ゴールデンウィークなのだった。

テレワークでほぼ毎日みんな家にいるから連休といったところで今更。

余裕でやりすごせると思っていたら甘かった。

休みの日はそれぞれ好きな時間に起きてくるから、食事の時間も洗濯も普段より更にバラバラになる。

そして、これがうっかりしていたが、夫がずっとテレビの前から動かない。

U-NEXTが、ブログが、読書タイムが、ラジオが。

気難しいのか神経質なのか、私はどれも一人きりで堪能したい。

急に気温が下がり二階は寒い。東京の5月。暖房をつけるのも気が引ける。

テレビの音がうるさいが、ここは台所の熱でまだ、暖かい。一階から動きたくない。

夫の横でiPadを広げ、イヤホンをしながら気になるドラマの続きを観はじめた。

バサっバサっ。

大きく広げた新聞をめくる音が邪魔をする。ムッと睨む。あ、ごめんごめん、うるさかった?

ドラマに戻る。

ずっずっ、ずっずっ。花粉症による鼻炎で鼻をすする。

「鼻をかんでこいっ」

「はーい」

すぐ戻ってきた。そのそばからまた、ずずっ、ずずっ。

「ちゃんと鼻かんだ?」

「かんだよー」

「じゃあもう一回、ちゃんとかんでよぉ」

「はーい」

ちっとも集中できない。

画面では時期大統領の座を巡り、民主党の代表は誰になるのかと心理戦が繰り広げられているというのに。そうでなくともアメリカの政治がよくわからなくて何度も何度も巻き戻さないと話の筋が理解できないというのに。

連休の間はあきらめよう。

二階に上がる。やっぱり寒い。ガウンをひっかけベッドに寝転び例の課題図書を開く。

とたん、難しい文章に脳が抵抗して眠くなる。

たしかこんなこと、学生のとき歴史と数学と理科でもあったような。。

 

 

なんでこんなのこんなの買っちゃったんだろう

テレビで紹介していた本を買った。

ネットで調べたら、近所の本屋では扱っていないのでわざわざ電車に乗って渋谷の大きなところまで出向いて買った。

鮮やかな言葉でアメリカで衝撃を与えた奇跡の作家。初の翻訳短編集。

紹介していた女流作家が「これを読むと自分も何か書かずにはいられなくなる」と熱く語っていた。

自分がそれを読んで小説を書き始める衝動に駆られるとは思わなかったが、それだけ魅力のある文章とはどんなものだろうと読んでみたかった。

たいてい本を選ぶときは書店で数ページ読む。言葉使いや筆者の持つ温度が馴染むものかどうか、そこで感じ取る。

長いこと、本当に読みたい軽いエッセイと、とっつきにくそうだけど教養がつくかもと課題図書のようなものをセットで買うようにしていた。

「あなたもくだらないものばかりじゃなくて、少しはこういうものを読みなさい」

母の呟きが脳内再生されるからで、そうしなくちゃますます自分はバカになっていくとバランスをとっているつもりでいたが、ある時からやめた。

だってどうしたって興味が湧かないんだ。高尚なのは。

絵画の本、歌舞伎の本、歴史の本、なんとか賞を取った作品、たいてい投げ出す。

面白いと思うのは、出てくる人物の生活や考えが見えるもの。くっきりはっきり曝け出しているもの。

感情が見えるもの。暮らしが価値観が伝わってくるもの。

だから、なんとか賞を取った作品よりも、それを書いた人の日常が垣間見えるエッセイの方が好き。

 

紹介されていた『奇跡の作家の短編集』は、読むと決めていたので手に取ってそのままレジに持っていった。

帰ってすぐ開く。

・・・。・・・・・。・・・・・・・。

よくわからない。描写も設定も。うまくイメージが浮かんでこない。

それでも読んでいれば何かエキスのようなものが感じ取れるかと頑張って字面を追う。

だんだんわかってきた・・気が・・する。

人間の奥底にある闇のようなものを鋭い言葉で抉り出している・・・作品・・たぶん。

つらい。

名著なんだろう。きっと。文章に風格も感じる。

でも辛い。

それでもやめられないのは、しんどい本だなあと思い、もうやめようと思って読んでいるとキラッと時々、ああ、真実だと思うような言葉があるのだ。そのキラッとしたのは辛抱強くページをめくっていると、たまに、キラッと目に飛び込んでくる。

辛いのだ。この本。固くて。

こう言うのを読み応えがあると言うのだろうか。

投げ出したい。落語家さんの書いた新刊エッセイが発売されている、そっちを読みたい。読みたい。

でも今、それを買ったら多分この本をもう開くことはない。確実に、無い。

そうしたら次、見つけるはずだったキラッとしたフレーズは永遠に私のところにはやってこない。

 

課題図書だ、本当に。

 

美しき誤解はそのままに

夫は2日連続の出社となった。

「トンさん、ごめん、明日も急遽会社、行かなくちゃならなくなっちゃった。ごめんね」

「あら、そうなんだ。大変なんだね」

「ごめんね」

二人がバラバラに降りてきて、2時だの4時だのに昼ごはん、場合よっては抜く。それを気にしながら過ごすのは地味にめんどくさい。どちらか一人ならまだ楽だ。

夫は自分が家にいないことを私が喜ばず、家にいることを歓迎していると思っている。

けっして違うわけではない。やはり居てくれると妙に気持ちが安定する。

しかし同時に出かけると聞くと、ちょいラッキーと思うのも事実なのである。

夫が料理上手で自分の食事を勝手にやる人ならいつも家にいたらいいと思うのかもしれない。

勝手なものだ。

連休明けに仙台に二週間の出張が入るかもしれないと言う。

一瞬、ちょいラッキーのランプが点滅する。しかし、二週間はちょっとなあとひっかかる。

コロナのせいか、今はたった14日間でも長いと思う。何事もなければいいなどと考える。

こっちもあっちも。離れている間になにも起こらないといいけどなあと思う。

単身赴任の2年間だってそんなことなかったのに、どういうことなのか。

コロナだの、戦争だの、事故だの、災害だのが耳に入ってくるなかで暮らしていても、自分は振り回されていないと信じていたが、やはり、知らず知らず過敏におっかなびっくり用心深くなっているのかもしれない。

玄関で靴を履きながら

「そうだ、例の出張ね、行かなくてすむかも。まだわかんないけど可能性として」

「あら、そう。よかったね」

「うん、うまくいけばね」

このときの「あら、よかった」は美しき誤解ではない。