グランマ・トンを夢描いて

美術展から出てボーッとした余韻で歩いてバスを乗り違えた。

まあいいや、終点までいって乗り換えよう。疲れた頭と立ちっぱなしでジンジンしている脚を休めようと席についた。

モーゼスの絵の世界から砧公園の紅葉。

まるで絵本の世界に自分がいるかのような気分に浸っていたところ、いきなりバスは環八を走る。

モーゼスばあちゃんならこのゴミゴミした街もそこに嫁ぎ暮らすとなったら楽しみ愛しむのかなあ。それとも、こんなところごめんだわと移住しようとするのかなあ。

この東京のど真ん中で私流のモーゼスってどういうことだろう。

つい余韻に浸りぼんやり思いを巡らしているとそれを突き破るような電子音がなった。

息子からの電話だった。

今日は遅まきながらの新入社員リクリエーションで埼玉の体育館に行っている。

ああきっと流れで同期で食事をすることになったから遅くなるとか言うんだ、助かる。

「もしもし」

車内だから手短にと言おうとしたら向こうはいきなり

「あ、俺、一応報告だから、心配しなくていい」

やや興奮気味に強い声で話し始めた。

「怪我したんだね」

バレーボールで走り込んでレシーブしたら転び、手首を痛めた、黙っていたがみるみる腫れてきて気がついた役員に帰れと言われたから医者に寄ってこれから帰宅すると言う。

夢うつつからいきなり現実に引き戻された。

母モードが起動する。

負傷は左だと言うから食事は自分でできるか。入浴はどうするんだ。骨折かもしれないな。だとしたら今夜は痛むな。あの人は痛みに弱いからまた大騒ぎしてめんどくさいな。鶏肉を漬け込んできたけど、状況がわからない、念の為つかんで食べられるようパンとシチューにしようか。

バスは終点についた。

声の感じからすると大怪我ではない確信がある。入院や手術ではない。

とにかく早く帰って何か食べて横になって体を休めよう。

帰宅し買ってきたパンとコーヒーを食べようとお盆に乗せ、さあっと言うところでまた電話が鳴った。

渋谷まで戻ってきた息子が、冷やすようにと持たされた氷のビニール袋が中身が溶けて重くカバンの中が濡れている、最寄駅の改札まできてこれを取り除けと言う。

「水なんだから捨てればいいじゃない」

「片手でファスナー開けられないんだ」

朝から家事を済ませたまま家を出て、足はパンパン、頭は鑑賞疲れ、やれやれやっと遅い昼食にありつけると思ったところに、今から出てこいとの電話に一瞬くらっとする。

モーゼスなら行く。

よっしと立ち上がり駅の改札に向かう。

やはり大事ではなさそうと確認し、息子と別れた。カバンを軽くするため引き取った未開封の500mlのお茶と水が重い。

このまま帰るものか。

スーパーに寄り、ご褒美がなくちゃと自分のためにキハダマグロの刺身パックを買った。

マグロで納得し、再度帰宅。荷物を片付け、風呂を洗い、さあ今度こそ、冷えたコーヒーを温め直し、お盆を持つ。

コンコン、コンコン。

窓をノックする。

今度は何っ。

みると窓におでこをくっつけ、友達と横浜のホテルにお泊まりしてきた母がこっちを覗いている。

ああっ。

・・・モーゼスなら、愛をもって対応する。

「開けて」

鍵を持って出なかったから玄関を開けてというので隣の家に行き中から開けてやった。

おかえりと言い、留守中、親戚の訃報があったことなど連絡事項を伝え、母の長くなりそうな話を途中で遮る。

「ごめん、ちょっと今日出てて、今からお昼なのよ」

息子の怪我のことは言うとそこからまた騒ぎ出すので黙って戻る。

さあ、やれやれ。今度こそ。

お盆を持ち、ホットカーペットをつけ、腰を下ろす。

時刻は4時半になっていた。

いっただきまーす、気分を持ち直そうとわざと明るい声を出したそのとき、階段をダダダダダっと降りてくる足音がした。

いやな予感。

「あ、今日お昼食べそこなちゃって、おにぎりとかあるかな」

妻の事情を知らない夫がニコニコこっちを見ている。

用意していたのが手付かずだったのでさっき食器を洗ってしまったところだった。

この人にも怪我のことは後で話そう。今は大騒ぎされたくない。

昼抜きで仕事をしていたなら夕方お腹空かせてそんなこと言い出すだろうと、刺身を買うついでに彼の好物のバナナを買っておいた。

「バナナ、あるよ」

「おにぎりとかない?」

もうこれ以上立ち上がりたくない。じきに息子も帰ってきて、ああだこうだと始まるのだ。今のうち休憩しておきたい。

「バナナ、今買ってきたのがあるよ」

「おにぎりとか、ないかね」

くーっ、グランマなら握るっ!

重なる日って重なるもんだ。モーゼスばあちゃんにこの程度のこと、ザラにあったはず。

「ありがとねぇ」

よく考えたらお茶碗にご飯をよそって振りかけでもいいのに握れという。

家族の小さなあれこれ。

この日、鑑賞してきたのが岡本太郎だったらこうはならなかったろう。

グランマ・トンに憧れた日だった。