韓国ドラマから随分飛躍

韓国のドラマを見終わった。

ずっと字幕で見ていたので耳に韓国語独特の語尾のイントネーションが残っているくらいだ。

偏見でアジアのドラマは面白くないと勝手に意味もなく思い込んでいたが、最近稀に見るのめり込みようで息子にも勧めた。

「俺は、いいから」

「そんな事言わないで。日本企業とよく似た体質で違和感なく観られるって。社会に出るとこんな感じかって、理不尽さも具体的に擬似体験できるってば。私のこれまでのドラマを選ぶセンスは認めてるでしょ?1話だけでも騙されたと思って観てみてよ」

親が息子に自慢するのが面白いドラマを嗅ぎ分ける能力だと言うところが我ながら情けないが、胸を張って主張した。

そして奴も騙された。翌朝、「あれ、いいな」と言い、数日後には私より先に全話み終わっていた。

ドラマの中では韓国の若者が企業の中で大人の中で、自分を見失い、傷つき、踏ん張り、成長させ、また傷つく。少しづつズルさも覚え、フレッシュマンではなくなっていく。

居酒屋で泣き、笑い、吠える。

家族の前での一人と、つながっているが、また別の人格。

平べったい表現でしか伝えられないのがもどかしい。

あまりに深く登場人物たちの内面が描かれていたので、全20話を観終わった感想は「みんな一生懸命生きているんだなあ」。

そんな単純な言葉だが、そのことの意味が、頭の理解でなく、体感として、初めて腑に落ちた。

みんな一生懸命生きているだけ。

近しい人、愛する人の幸せを願うだけ。

幸せになりたいだけ。幸せになってもらいたいだけ。

なのにどうして争うことになるのだろう。

きっとそれは宗教を含め各家庭、各地域、各国での哲学、習慣、価値観、小さな小さな尺度の違いも渦巻状に絡まっているのだろう。

母のことを思い出した。

母のことで苦しんでいた時、祖母のところへ毎週通っては彼女の幼少期の頃からの話を何度も何度も聞いた。母自身にも結婚するまえ、してからの嫁姑の葛藤、父との葛藤、育児での悩み、これまでカッコつけていいところしか見せてこなかった裏側を話してもらった。

ああ、そういう流れでそう考える癖がついたのか。

ああ、だから、そんなふうに人の目を気にするのか。

お母さん、として見上げていた彼女を辿るうちに母親以外の女性が立体化して浮かび上がる。

今でも彼女の発想ややり方に同意できなかったりダメージを食らうことはあるが、こうだからこうなって、こういう人になっていると想うと、傷つけられたとしても私個人の価値が無いと泣くこともなくなった。

そうだね、そう思うのも無理もないね。

恨むこともいじけることもなく、ただ、ソレが起きただけ。

母は母で並行して一生懸命生きている。

だからと言って私がそこに従う必要はない。

私も私で一生懸命生きるのみ。

以前より私はだいぶ力をつけた。

ヘラヘラしながらも1日1日を一本勝負で生きている。

ドラマの中の必死に現実に立ち向かっている登場人物たちにここまで熱くなれたのも、その強さを身に付けた証かもしれない。

・・・なんつって。